セルベッサ
サラ・デ・トキオのジョーさんにミハスでのことを報告した。
不憫に思ったのか、ジョーさんは無理をして私に仕事をつくってくれた。
それはジョーさんの家の掃除と犬の世話、店の手伝いで、報酬は食事であった。
ジョーさんの家に泊まればいいと言われたが、既にアパートの契約をしてしまっていたので、残念ながら断った。
ジョーさんの世話になる生活が始まった。
昼頃サラ・デ・トキオに行き、昼食をいただく。時々富士通の日本工場からの注文で、弁当づくりと配達の手伝いをした。
昼の仕事がない時は、バル(立ち飲みの居酒屋)に行きセルベッサ(ビール)を大ジョッキで飲んだり、プールやテニス、ゴルフ(私は荷物運びだが)を楽しんだりすることもあった。
ジョーさんが仕込みに入ると、私はジョーさんの家に行き、掃除と犬の散歩などをした。
私も小型犬を飼った経験があったが、ジョーさんの犬は大型犬のシェパードで、2匹も飼っていた。そのうちの一匹がとてもやんちゃで、文字通り振り回された。
犬の機嫌がいい時は、散歩で地中海まで行った。30分もかからなかったと記憶している。
ジョーさんの家は、地中海に面した高級住宅街にあった。もちろん、真白い外壁の家だ。
夕食の頃サラ・デ・トキオに戻り、皿洗いや簡単な調理をするのだが、私の調理担当はキャベツの千切りと揚げだし豆腐づくりであった。キャベツの千切りも奥が深いと知った。一枚一枚葉をむしり、太い芯を取り去って数枚丸く束ねて繊維方向と平行に切る。こうすると、なるほど味も食感も一味違う。
揚げだし豆腐のトーフは、インスタントである。スペインに豆腐屋などなく、当然手に入らない。
豆腐のインスタントがあるとは驚きであった。豆腐の素である粉末に水を加えて煮立て、型に流し込む。固まったトーフを短冊に切って小麦粉をまぶし、油で揚げる。だし汁を加えてネギと生姜を載せれば揚げだしトーフの完成。なかなか美味しい。
ジョーさんの助手をしている調理人のペペは、真面目でお茶目なスペイン人だ。彼の賄いは創造的だ。例えば、日本蕎麦にホワイトソースをからめてフォークで食す。ニコニコしながら美味しいよと勧めてくれるが、ゾッとして一度も食べなかった。やはり、ジョーさんの賄いが旨い。
午前0時過ぎに閉店し、バル巡りに繰り出す。午前1時2時でも街は賑やかだ。子供の姿も見かける。
ジョーさんの酒の飲み方は、タパ(つまみ)など頼まずセルベッサを大ジョッキで2杯飲み干すとラクエンタ(お勘定)、次の店に。これを繰り返す。そして仕上げは、高級なイギリスバーでウイスキーを飲む。ここでもタパ無しだ。
アルバイト
ジョーさんから別の仕事を斡旋してもらったこともある。
ピンチョウ刈りの仕事だ。
ピンチョウとは、2mにもなるアザミの化け物のような雑草で鋭いトゲがある。このトゲは刺さると抜けにくい構造になっており危険だ。
このことは現場に行ってはじめて知った。
紹介された時は『草刈りのアルバイトで時給200pst、昼食昼寝付き』と言われた。
スペインのギラつく太陽の下で汗をかき、真っ黒に日焼けするのもいいなと思い即答で引き受けた。
現場で危険な仕事だと説明を受け、厚手の長袖長ズボンと防護メガネ、帽子に皮手袋という出で立ちにされた。全て刈り取るまでに2日かかったと記憶している。想像以上に過酷な仕事であった。しかし、スペインを肌で感じた。
また、サラ・デ・トキオの外壁に絵を描く仕事も与えてもらった。
日給5000pstと食事付きで、画材費は実費支給。大通りの交差点に面した壁面で、多くの人目に触れる壁がキャンバスだ。
嬉しい仕事をつくってくれたが、『日本料理店を連想させる、日本的な感じを表現する』という難しいテーマを出されてしまった。しばらく悩んだが、自分のスタイルで描くのはやめて浮世絵を描くことにした。壁に向かってから一週間ほどで完成させた。
朝からジョーさんが出勤するまでの間が制作の時間だ。
心地よい太陽の下で汗と絵の具にまみれながら制作し、生きている実感を得た。乾いた風が清々しく感じられた。
制作期間中、色々な事に遭遇した。
行き交う人に話しかけられたり声援を受けたりした。
新聞の取材も受けた。『スール』という地方新聞社であったと思う。写真を撮られ、いくつか質問を受けたがほとんど答えられずに愛想笑いをしていた。おそらくボツになったと思う。
強盗未遂事件?に遭ったこともある。
絵筆を洗うために店に入り、洗面所で洗い始めた。人の気配を感じ、ふと正面の鏡に目をやると『ゴッホの自画像』の目のような鋭い眼光が映っていた。
一気に血の気が引いた。冷静を装いゆっくり、しかし、できる限り素早く振り向いた。
筋肉隆々、金髪で坊主頭の男であった。
私は、凄味のきいた大きな声で「コモ・セ・ジャーマ・ウステ?」とその男に向かって叫んだ。
男はひどく動揺しながら「ミゲール」と、その風体からは想像できない弱々しい声で答えた。
それもそのはずである。私がとっさに口走ったスペイン語は、「あなたのお名前は何ですか?」であった。敬語で名前を聞かれるという突飛な攻撃を受けた男はパニックに陥った。名乗った名前もおそらく本名だと思う。
我に戻ったミゲールは、何も盗らず大慌てで逃げ去った。
私は、恐怖からの足の震えと笑いからの腹の震えを同時に味わった。
家庭料理
ミハスで手繰り寄せられるように出会った仁平さんの家に行かせてもらった。
トレモリーノスから2,3駅の街であったと思う。閑静な住宅街に大きなビルのアパートが立ち並び、その一角に仁平さんの家がある。
手ぶらでは失礼だと思い、とてつもなく安い一升瓶に入ったワインを買って行った。
仁平さんに手渡すと「懐かしい、若い頃よく飲んだものだ」と言って、そっと準備してくれてあった極上のワインを優しく注いでくれた。
パエリヤをはじめとしたスペイン料理がテーブルいっぱいに並べられた。底抜けに明るい奥さんの手料理だ。愛情いっぱいの料理はやはり美味しい。奥さんとは初対面であったが、以前からの知り合いの様に振舞ってくれた。
5歳の可愛い娘さんがバイオリンでユーモレスクを演奏してくれた。心地よい響きであった。
部屋の壁には仁平さんの作品が飾られていた。彫刻家であるが、長年平面作家であったかのように完成されたおしゃれな絵だ。水田などが干からびた時にできるひび割れを連想させる作品であった。
おこがましいが、私も共通した感性を持っていると感じた。
穏やかで凛とした仁平さんだが、家族の前では温かい笑顔が絶えない。
若い頃に弟さんとスペインを旅して、その地で生活をはじめ、作家としても成功しつつある。
支えてくれる奥さんと希望である娘さんに囲まれ、生き生きとしている仁平さんの話を聞いて、私も勇気をもらった。
「スペインの幼児教育は、個々の感性を育み、伸ばすことにおいて最良の環境が整っている」と奥さんが力説していた。確かに、スペインは多くの優れた芸術家を生み出している。娘さんはその素晴らしい環境の中で、実に豊かで伸びやかな感性を持っている。
旅の目的
一面のひまわり畑を見ることが、私のスペインに来た目的のひとつだ。
その話を仁平さんにすると、「ひまわり畑を見に行こう」という話に発展した。
仁平さんの家族は3カ月に一度ポルトガルに小旅行するようだ。ビザなしの滞在なので、3カ月ごとに国外に出る必要があった。
私のアパートの契約が切れる頃に出発を合わせてもらい、ポルトガルへの道中でひまわり畑を見るという約束をした。
おまけ話 ひまわりの種
スペインで初めて訪れた街がバルセロナである。街ゆく人の中に、口をもごもごしてペッペッと何か吹き飛ばしながら歩いている人が目についた。ひまわりの種を食べているのだ。ビニール袋いっぱいに入った種を持ち歩き、塩が付いた種をそのまま口に入れ、舌と前歯を器用に使い中の小さな種だけを食べて殻のみペッと捨てるのだ。
私もやってみたくなり、ランブランス通りに並ぶ屋台でひまわりの種を買ってみた。
前歯が欠けそうになりながら練習をした。なかなか難しく、マスターするのに半年はかかった。殻に付いた塩味と小粒ながらも油をたっぷり含んだ濃厚な味は病みつきになる。
ただ、ペッペッとできる街とそうでない所がある。トレモリーノスでは勇気がいる。