黄色い海
アパートの門番と毎日交わす「オラ」の一言にも、色々な気持がこめられるようになっていた。
最後の「オラ」を交わしアパートを出た。
6月初旬の早朝、仁平さんの運転する車で出発した。
地中海沿岸を西に走る。
赤土の大地と、空と海の青の世界が延々と続く。
丘陵の頂上に差し掛かると、目の前にひまわり畑が広がっていた。
黄色い海である。
その海にどっぷり浸かると日常から切り離される。
感覚が研ぎ澄まされ、敏感に色や音、香りを感じ取る。
思考も負けずにフル回転する。相反するものが融合し無に近づいていく。
そこからはひまわり畑が続く。もうすでに焼かれたひまわり畑も多い。
日本の感覚だとひまわりの見頃は7~8月であるが、スペインでは随分早いようだ。
スペインとポルトガルの国境の町に着いたのは随分遅い時間であったはずだが、太陽の力は衰えてはいなかった。
旅立ち
車を預け、フェリー乗り場に行く。
そこで出国の手続きをする。
フェリーで国境の川を渡る。あっけなくポルトガルに上陸だ。
川ひとつ隔てて風景は一変する。赤から青の世界に入ったようだ。
仁平さん達は綿製品やパンなど買っていた。もう国境越えの儀式は恒例化されているようで、無駄なくスムーズに行われていた。
ポルトガル側で夕食を御馳走になりながら、仁平さんから今後について聞かれた。
私は、ひまわり畑を見ることとパスポートに入出国の印を打ってもらうことしか目的を持ち合わせず、ノープランであった。
とは言え、スペインで旅するため、スペインに長く滞在するために入出国の印を得たわけであり、当然スペインに戻るはずであった。
仁平さん達と共にスペイン側に戻った。
しかし、私は既にポルトガルを旅したくなっていた。
大した理由はなかった。強いて言うならば、ポルトガルで食べたパンがとても美味しかったからである。
トレモリーノスまで一緒に帰ると思っていた仁平さん達はひどく心配してくれた。ホテルも一緒に探してくれた。
寂しさを悟られぬように、私は旅人モードに切り替えた。
仁平さんも旅人の目になっていた。
これが仁平さんと直接ふれあって会話できた最後の日となった。
旅人
ポルトガルを1ヶ月間旅してスペインに戻り、セビージャ、ロンダに立ち寄り、トレモリーノスに戻って来たのは7月中旬であった。
アフリカを目指すためである。
ポルトガルを巡りながらアフリカへの思いが募った。
ポルトガルのスラム街で自分の方向性を見失った。
赤いパスポートもクレジットカードも全てを捨て去り、アフリカへ行きたくなった。
以前に増してジョーさんの世話になった。
ジョーさんは早稲田大学を卒業してイギリスに渡り、家具の貿易商になった。
やがて、夢であった日本料理店をスペインに出すことになる。
あまり自分のことを語らない人であった。
旅人の心得をよく知った人であった。
3週間余り経つ頃には、2匹のシェパードも私の言うことを聞くようになっていた。
必ずまた戻ってくることを約束してアフリカに渡った。
再度トレモリーノスに戻ったのはそれから1ヶ月後である。
珍しく砂浜にある屋台のバルに連れて行ってもらった。
夏の終わりなど、この地にあるのだろうか。
波の音を聞きながらセルベッサを飲み干す。
屋台のネオンと星空が眩しい。
「ここで絵を描きながら暮らせばいい」
「面倒は、俺が見る」と、ジョーさんが言ってくれた。
とてもいい話であったが、既に私は絵描きでなく、旅人になっていた。
別れを告げた。
今度は戻れるか分からなかったが、土産を持って来いと言われた。
日本の割りばしと山口百恵のカセットテープがジョーさんのリクエストであった。
その約束は、もう果たせぬ事となってしまった。