つながりは驚き 手繰り寄せられる
創造していく過程で
自ずと生まれるつながり
必然として浮かび上がるつながり
目に見えぬ創造の線は無限につながる
全てはつながり
その摂理には美しい形と色が存在する
しかし、それを見極めることは難しい
さらに、それを視覚的に留めようとすること、
秩序だてようとすることは
苦しみであり、創造の喜びでもある
確かな現実を見極めることより難しい
活動再開 2010年個展~つながり~について
キャンバスに向かうと、絵が「次はこうしなさい」と言ってくる。
だからと言ってすぐに答えは出ない。
何度も色置きの問答が繰り返される。
もちろん白いままでは何も始まらないし何も言わない。
手を抜けば「何をしているのだ」という叫びが聞こえてくる。
真剣に向き合わなければ曖昧なものになる。
心を込めて妥協せず向き合えば、素晴らしい作品へと進んで行く。
であるから、いつでも真剣勝負である。
そして私自身も学び、成長させてもらえる。
これまでの多くの人達との出会いも、風景も、思考も、
全てが必然であり、
前兆であり、
つながりである。
1990年の6月、私はポルトガルにいた。
日本には帰らない・・そのつもりであえて往復の航空券より1万円高い片道の航空券を購入し、小さなナップサックに墨と筆、それまでに描いた作品の写真と二日分の下着を詰め、スペインへ向けあてのない旅に出た。
ポルトガルに入ったのも大した目的があったわけではない。
スペインで知り合った夫婦がポルトガルへ小旅行に出かけるというので便乗させてもらい訪れたのである。
ロマンティックに言うならば、西の果てを見たい、スペインで見そびれた一面のひまわり畑を見てみたいという目的もあった。
現実的に言うならば、ビザなしで入国した私には3ヶ月に一度スペインから出国する必要もあった。
私は夫婦の車の後部座席に乗り込みポルトガルを目指した。
ポルトガルで、絵を描くことに終止符を打った。
ポルトガルの南、スペインとの国境の街 VILA REAL DE SANTO ANTONIO でそこまで乗せてきてもらった夫婦と別れた私は、運よく安いアパートメントを見つけ、しばらくこの街に滞在していた。
何日も晴れた日が続いたある日の朝、私は数キロ離れた海岸を目指してあてもなく歩いていた。
街を抜けてしばらく歩いて行くと、壊れかけた古い城壁のようなものが辺りに点在し始めた。
昔の戦争の砲弾によるものなのか、城壁の砂壁には大きな穴が幾つも空いていた。
そしてその穴には真っ赤な車のボンネットが内部から据え付けられていた。
気が付くと私はその壁を必死にスケッチしていた。
壁のようなもの … 風雪に耐え、人の生が沁み込んだもの … をテーマに私はそれまで描いてきた。
その壁は私の求めていた”美”そのものであった。
そしてその壁の裏側がどうしても見たくなった私は恐る恐る足を運んでみた。
するとそこには更に美しい風景が広がっていた。
真っ白に塗られた不揃いの板がランダムに打ち付けられていた。
旅の前まで描いていた作品と全く同じような光景がそこにはあった。
そして次の瞬間愕然とした。
そこはスラム街であり、それらは彼らの家であったのだ。
太陽や風雨から身を守るため、城壁を利用し、白く塗った板きれや鮮烈な赤のボンネットを使い、家を造ったのだ。
なんということだろう。
彼らは生きるためにその造形物を造り出したのだ。
私は、芸術が云々とわかったような事を言いながらそれらを創りだす。
そして私にはパスポートがあり、いくらかのお金とクレジットカードさえある。
いつでも守られ、逃げられる日本人である。
それまでの自分が全て否定された。
否定したのはもちろん自分だ。
それ以来20年間作品に向かえなく、向かわなくなった。
そして、あてのない旅の目的が鮮明になった。
今回の20年振りの個展は、20年越しのその旅の答えであり、
決着であり、
再出発でもある。
『 西の果て 』はポルトガルの風景であり、その地で体感したことや思い巡らしたことを描いたものである。
『 太陽の海岸線 Costa del Sol 』はスペイン、
『アトラス山脈を越えて』はモロッコ、
『路上の詩』はニューヨークのそれである。
2010年 6月 小泉清亮